こんにちは。アンドパッドのソフトウェアエンジニアのzigeninです。最近は、チャットのバックエンドやインフラを担当しています。
年の瀬も押し迫り、随筆*1を書きたくなる時期になりました。ということで、今回は「精神の平穏を保つ思考法」というテーマで随筆を書きます。
この記事は ANDPAD Advent Calendar 2022 の 17 日目の記事です。
ソフトウェア開発は精神がざわつく出来事が多い*2
ソフトウエア開発は協働型の仕事なので他人と接触する機会は多いです。それゆえ、人間関係の摩擦も多く、精神がざわつく出来事がしばしば起きます。誰かの何気ない言動に傷ついたり、自分の悪意のない行動がさも悪意があるかのように騒がれたり、誰かに攻撃や邪魔されているような気がしたり、一緒に働く人の中に相性の悪い人がいてやりづらい、善いことをしたのに誰からも称賛をもらえなかった、といったようなことです*3。どこの会社でもこのような嫌な出来事に遭遇することはあると思います*4。
こういった出来事に遭遇した後、ひどく引きずってしまうことがあります。私は、ネガティブな感情に囚われると、1~2日くらいずっと嫌な気持ちになりますし、深夜でも嫌なことが頭から離れず、寝不足になってしまいます。その一方でくよくよしたからといって状況は改善せず、何の生産性もないことだと常々思います。
精神の平穏を保つ思考法
精神が落ち着かないときに、平静になれる良い思考法があります。私は、哲人皇帝と評されるマルクス・アウレリウスの自省録からそれを学びました。以下に紹介します。
- 自分で制御できないことに振り回されず、制御できることに集中する
- 制御できること: 自分の魂、現在
- 制御できないこと:他人、未来、過去
- 物事に意味を与えるのは、自分自身の主観である
これだけです。拍子抜けするかもしれませんが、これに尽きます。
大体の場合、精神がざわつくのは、他人の言動に対する自分の捉え方に問題があります。よくあるのは、他人の言動にありもしない悪意を見出したり、自分の常識や正義に誰かが反していると感じるパターンです。
自省録流の思考では「制御ができない他人のことを気にしても仕方がないし*5、彼には彼の指導理性があるのだろうし、他人の腹黒さに眼を注ぐのは善き人にふさわしくないし、自分が損害を受けたと思わなければそもそも損害は存在しない」となります。精神がざわつく主因である他人の言動を良い意味でスルーする思考法です。
補足ですが、自省録では公益に沿う行動は善行扱いです。他人や社会に不利益があってもお構いなしというスタンスではありません。
精神が落ち着くマルクス・アウレリウス語録
ここからはマルクス・アウレリウス語録を紹介します。精神がざわついているときに思い出すと気が楽になります。なお、この語録は、こちらの本からの引用です。
出来事に意味を与えるのは自分次第
「自分は損害を受けた」という意見を取り除くが良い。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くがよい。そうすれば、その損害も取り除かれてしまう。
「勝負事において、負けたと思わなければ負けていない」的な発想だと思いました。強いですね。
君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。
「敵は外にあらず、敵は自分自身にあり」ということですかね。
コントロールできないことに振り回されない
物事にたいして腹を立てるのは無益なことだ。なぜなら物事のほうではそんなことにはおかまいなしなのだから。
想像力を抑え、現在に集中する
想像力を抹殺せよ。人形のように糸にあやつられるな。時を現在にかぎれ。
ここの「想像力」は邪推、憶測、妄想の類だと解釈しています。邪推は他人のことをあれこれ気にする行動で、憶測や妄想は過去や未来のことを考える行動。結局は、自分がコントロールできないことは気にするな、ということだと思っています。
称賛や名誉は善でも悪でもない
実際人間は賞められてもそれによって悪くも善くもならない。 (略) エメラルドは賞められなければ質が落ちるか。金、象、紫貝、竪琴、短刀、小花、灌木等はどうか。
人から称賛されることを求めるのは無意味ということであって、人を称賛するなという意味ではないです。称賛の文化があるチームや職場の方が雰囲気が良いのは間違いないです。
それともつまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみやかにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるのを、喝采の響きの空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変りやすいこと、思慮のないことを、以上のものを囲む場所の狭さを。全く地球全体が一点にすぎないのだ。そして我々の住む所はこの地球のなんと小さな片隅にすぎぬことよ。そこでどれだけの人間が、またどんな人間が、将来君を賞めたたえるというのであろうか。
「自分がコントールできない未来では、君が称賛され続けているとは限らないけど、そんな不確かなものを君は追求するのかい?」と、私は解釈しています。
見返りを期待しない
ある人は他人に善事を施した場合、ともすればその恩を返してもらうつもりになりやすい。第二の人はそういうふうになりがちではないが、それでもなお心ひそかに相手を負債者のように考え、自分のしたことを意識している。ところが第三の人は自分のしたことをいわば意識していない。彼は葡萄の房をつけた葡萄の樹に似ている。葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、それ以上なんら求むるところはない。
君が善事をなし、他人が君のおかげで善い思いをしたときに、なぜ君は馬鹿者どものごとく、そのほかにまだ第三のものを求め、善いことをしたという評判や、その報酬を受けたいなどと考えるのか。
他人になにかしてあげる -> 何も見返りがないという流れは、ありがちなイライラパターンですね。見返りを求めないのはもちろんですが、「してあげた」ではなく、そうするのが自然の摂理であると考えることができたら、イライラからは解放されます。
他人の悪には寛容に
ところでいったい何にたいして君は不満をいだいているのか。人間の悪にたいしてか。つぎの結論を思いめぐらすがよい。理性的動物は相互のために生まれたこと、互いに忍耐し合うのは正義の一部であること、人は心ならずも罪を犯してしまうこと。
人が君にたいして過ちを犯したとき、その人が善悪に関するいかなる観念をいだいてこのような悪事をしたのか直ちに考えてみるがよい。それがわかったら、君はその人を憐みこそすれ、驚いたり怒ったりはせぬであろう。なぜならば君自身またその人と同じ善の観念を持っているか、あるいは大体同じような観念を持っているのだから彼を許してやらなくてはならない。
綺麗事だけではなく、ドライな考えも根底にありそうだと私は思っています。
他人をコントロールすることはできない → 他人から自分をコントロールすることもできない →他人の行動が悪だったとしてもそれによって自分の善性や平穏は損なわれない → なので他人の行動が悪だったとしても気にすんな
他人に助けてもらうのは恥ではない
人に助けてもらうことを恥ずるな。なぜなら君は兵士が城砦を闘い取るときのように、課せられた仕事を果す義務があるのだ。もし君が足が不自由であって、胸壁を一人では昇ることができず、ほかの人の助けを借りればそれができるとしたらどうするか。
自省録だと他人のことで心を煩わされるなとは言っていますが、誰かに助けられたり、誰かを助けることは否定していないです。
最後に
ここで紹介したことが、皆さんの精神安定に役に立てば幸いです。平穏な状態で年末・年始を過ごせると良いですね。アンドパッドにこれから入社される方々には役に立つ場面は少ないと思いますが(たぶん)。
現在、アンドパッドでは一緒に働く仲間を大募集しています! ご興味を持たれた方はカジュアル面談や情報交換のご連絡をお待ちしております。
明日は、4日目「ANDPADで韻を踏む」の続編、「アンドラップのつくりかた」だそうです。お楽しみに*6。
補足:ところでマルクス・アウレリウスって誰よ?
マルクス・アウレリウスはローマ帝国の五賢帝の最後の皇帝です。西暦161年~180年が在位期間です。ストア哲学の学識があり、哲人君主と評されることもあります。自省録は、マルクス・アウレリウスが自分宛てに書いた散文集です。日々書き足したものなので日記に近いですが、平安時代の貴族の日記とは異なり他人に見せることは意識していないらしいです。
彼はローマ皇帝という偉い身分なのですが、結構な苦労人なようです。内向的で軍事を好まなそうな人ですが、治世のかなりの部分は外敵と戦ってばかりで、最期も陣中で亡くなっています。彼の息子は、自分のことをヘラクレスの化身と言い出したり剣闘士*7の真似事をする変わり者です。
自省録では、結構な頻度で、他人に悪意をいだくな、他人からの理不尽の批判を気にするな、自分のことに集中しろという記述が出てきます。それは、実際にはそれらができていないことの裏返しだと私は感じました。当たり前にできる行動をくどくどと書かないでしょうし。彼も、他人を疑ったり、他人の批判にいらいらしたり、といったことをしてしまうときがあったのだと思います。ローマ皇帝という偉い立場ですら、市井の人間と同じような悩みを持っていたということです*8。そう考えると、とても親しみが持てる人物です。自省録を読むと「おまえも大変だったんだな」という感情が湧いてきて心が落ち着きます。
最期に、自省録に興味が湧いてきたのであれば、ぜひ読んでみてください*9。きっと心が落ち着きますよ😎
*1:ソフトウェアを扱う界隈ではポエムと呼ぶのが一般的ですが、全く異なる分野の知人に、「それポエムじゃなくて、エッセイ(随筆)だよね」とコメントされました。言われてみればそうだと思って、随筆と呼んでおきます。この界隈ではポエムで良いと思いますが。
*2:私はソフトウェア開発以外の仕事をしたことはないですが。
*3:具体的な事例を与えた方が親しみのある文章になりそうですが、生々しくなるのでやめておきます。
*4:アンドパッドでは嫌なことが頻発している訳ではなく、ここ3ヶ月は精神の平穏を割と保てています。
*5:正確には、他人がなぜそういう行動をするのかを分析しろ、ただし想像や評価を付け足すなということらしいです。
*6:技術記事を書くと予想して、あえて随筆にしたのですが、昨日も明日も技術でないですね😅
*7:当時の価値観だと、剣闘士は卑しい職業扱いだったようです。
*8:正直、皇帝なのだし、嫌な人は左遷・追放・処刑すれば良かったのでは?とも思いますが、それを大々的にしなかったのがこの人の立派な所の1つだと思います。この頃の皇帝は専制君主ではなかったから好き勝手できなかっただけ?
*9:人に見せることを想定した文章ではないので、体系的でもないですし、同じ主張が表現を変えてくどくどと書かれていたりします。なので、全巻読もうとすると結構きつく感じます。4~5巻あたりまで読めばマルクス・アウレリウスの思考法はほぼ分かると思います。